2018年12月28日

地震からもやもやと沸き起こった疑問

9月に書きかけて引越で中断してしまった記事のカケラから、
つないで書いてみます。


(9月6日の)地震から11日経ってまた余震で飛び起きた未明から
緊張で眠れなくて、もじゃもじゃと考えていたことを
書き留めておきたいと思います。

どうしても違和感を覚えてしまうことが二点あります。
一つは、安全キャンペーン。
もう一つは、備蓄品。


原発事故と何か根っこが似ているようにも思える安全キャンペーン。

観光を売っている北海道では
もう安全!キャンペーンが早くも始まっています。

数多くの観光客を避難所で受け入れることができなくて
課題を必死で叫んでいる人がいる中で、
大きな余震がまだ続いている中で。


観光客の方にお金を落としてもらわないと
困るのは分かるけれども、

災害時も、彼らを安全に、不安を和らげながら
北海道に来て、よかった!と言ってもらえる状況に
この短期間で本当になったのか、疑問が残ります。

金ヅルとしてしか、彼らを捉えていないのでは?という
疑念さえ抱いてしまう私はやはりひねくれ者なんだろうか。。

避難所の設置の仕方、食糧の分配、外国語への対応、
日本人同士でさえ非常にストレスになっているプライバシーの確保…

もうちょっと改善してから、
災害時に来ていても、驚嘆と感心をして帰ってもらえるような
そんなおもてなしの方が、
私は「それでも」行ってみたい処になれるように思えてなりません。



二点目の備蓄品について。

「災害に備えて、食糧、水、日用品を備蓄しておきましょう」
と毎日何度もラヂオで警告してくれます。

この場合の備蓄は、つまり、買いましょう、です。
三日分蓄えれば、あとは外から入ってくるから大丈夫、
ということのようです。


今回北海道では、ブラックアウトが起き
(一億層懺悔方式できっと誰も責任は取らないでしょう)
物流がすっかり狂ってしまいました。

これがもっと長く続いたら一体どうなったでしょうか?
真冬にこれが起こったら?

きっと停電でたくさん死人が出たと思います。



ほんとうに備蓄だけでよいのだろうか。

そもそも買わないと生きるためのものを確保できないこと自体に
暮らし方そのものを見直すきっかけを見出せないものだろうか?

私は疑問に思えてならないのです。



自分の生きている範囲を見渡して
どれだけ外部に依存しているか、
どれほど遠くのものに依存しているか考えてみると
もうほとんど全てと言って良いと思います。


まだ引越は済んでいませんが、
畑の家の傍には年中涸れない川があり、
冬じゅう焚けるだけの薪が積んであります(まだ切ってないけど!)。

食糧は、野菜なら畑になっています。
二週間後以降の米は、仁木に行かないと…精米器は電氣か…orz
籾摺りって臼と杵で搗くんだっけ…?

こういう一つ一つの暮らしの中味を、
買うことによって汗をかかずに手に入れることは出来るのですが、

せめて自分でも調達できる場所に暮らし、
知恵をもっていることこそが、
ほんとうの備えではないのかな、と
思えてならないのです。

そうなると、逆に必要なのは備蓄品よりも、
資源
道具
知恵
なのかな。


隣の家に、卆寿を待つ方が暮らしています。

生まれたときから
自動車が町を走っていて、
ガスで調理ができ、
農家も食べものは買って済ませてしまう
ひ弱な時代の私たちが
経験したことの無い暮らしを知っています。

地震を期に今一度、
学び直すときなのではないでしょうか。


私は住んでいるところに断水もなく、
普段から電氣依存ではなかったために
停電ではあまり困らなかったけれども、

世の中のあまりの混乱と
向かっていく方向に違和感が拭えなかったので
ぐじゃぐじゃ書きました。


0906照子.JPG

オフグリッド電源の照子!
地震時にはお向かいさんの電源も供給し、久々の活躍。


0913ビス打ち千本.JPG
もうすぐ引越、畑の我が家。
床板生材ビス打ち千本ノック。
どれだけ縮むかコワイ…(>_<)
でも早く移って、地に足を着けたい!

0824北星誘引.JPG

北星の授業風景。
あなた方の将来、日本はどんな社会になっているのか、
お先真っ暗では、申し訳ない!
責任を感じます…
posted by こはるん at 23:57| 北海道 ☔| Comment(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月28日

家事との付き合い

引き籠もり生活も一年以上が過ぎ、
若干の慣れと、まだ馴染まないところとが混ざり合い、
こころの底に澱を溜めているこの頃です。


授乳、おしめや汚れ着の洗濯が済んだら
料理の下ごしらえをして、まだ余った時間は、
ケチャップや福神漬け、紅ショウガ、ピクルス、鰊漬け、キムチなど
色々と家の内外の作物で保存食を作っておりました。

ケチャップは最初の煮つめを適当にしておいて、
ストーブの火が灯ってからしっかり煮詰める、というのがどうやら私向きです。


どうも、家に居て、家事の好き嫌いが
はっきりわかってきました。

大雑把に言って、
○暮らしをプラスにしてくれる家事

●暮らしのマイナスを和らげてくれる家事

という二種。

前者は、
家庭菜園
料理
保存食作り
菓子作りなど

後者は、
掃除
洗濯
整理整頓
ゴミ・排水の処理
などです。


片付けた傍から引っ張り出されるオモチャや本、
汚れるおしめに、次から次と降ってくる洗濯物。
(もちろん、文明の利器、洗濯機が洗ってくれるので
おしめは予洗いのみです)

遊んでとせがまれて、それさえなかなか進まないというのも
悩み所です。


外シゴト、カセギ仕事と違って、
家事には報酬や、感謝のやりとりがない。
区切りが見えにくい。

自分の調子が悪いときには、終わりなき家事地獄〜、
と思えてしまうときもあります。


それで、せめてご飯くらいは!と思って子どもを背負って
張り切ってかつお節削りから始めて精一杯作っても
やはり「なまらわや」な部屋で洗濯物に囲まれて食べたとしたら、
おいしさ半減です。
あぁ、やっぱり片付けなくては…げっそり。


ちっとも、修行が足りません。

栗沢に通っていたとき、師匠が貸してくれた
ティクナットハンの「氣付きの奇跡」にあった言葉を思い出します。

言葉の趣旨はこんな感じだったと思います。

今、目の前にあることに集中し、
感謝を以て事に当たりなさい。
それが、食事であっても、お茶であっても
洗い物であっても、掃除であっても。


子どもの成長を間近で見ることの出来る、
ほんとうに限られた期間。

そして、
丁寧に暮らす。
これが一番の原点だったよなぁ。

毎日毎日、家事と散歩と子どもとの遊びだけして過ごしていると
どうも多動気味の私には切ない時間にもなってしまいがちです。

散歩をしてもほとんど人に会うことができず、
対話の相手がいないのも辛いです。
お茶飲みできる場所も冬路歩いて往復2時間…


せめて、氣持ちだけでも、
家族が平和で暮らしていけることの
ありがたみをしばしば顧みて、
たいせつに過ごしたいものだなぁと思います。

(畑があると、もっと色々できるので、
きっと来年にはもうちょっと大丈夫なはず…)

P1280144.JPG

<オマケ>
車は夫の冬休みの自由研究「父ちゃんカー」
キャスター4つ付きなのでかなり走る。

貝は昨日の散歩の収穫。
大時化ででかいのも漂着した模様。ホッキ?
ブーメランとイカ飛行機は、12月から長いブーム。
「飛行機とってこい〜」で運動不足解消。

おもちゃは、こどものが喜ぶように、
そして、ゴミにならずあるもので工夫して楽しめる道具を作って
賄っています。
posted by こはるん at 16:36| 北海道 ☔| Comment(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

夏の終わり

西高OBオケの夏が今年も終わりました。
聴きに来て下さったみなさん、一緒に演奏してくれたみなさん、
そして事務局のみなさん、ほんとうにありがとうございました。

一日子守してくれた夫にも、大感謝!


〜〜

演奏したチャイコフスキーの4番は、
16年前高校二年生の夏に演奏した曲でした。
大祝(大学祝典序曲)、真夏の夜の夢と共に、
高校生活で最も思い入れのある曲です。
今までの人生の丁度半分の頃と、同じ先生の指揮で演奏できるとは!


演奏したパートこそ違えど、場面ごとに、
高校生の頃、演奏した人たちの顔や仕草、替え歌等々思い出されます。


正義感というのか義憤というのか、
人間関係の氣まずさを何とかしようとして却ってこじけさせてしまったことや、

ドンパの家族の大変な事情を知らずしつこく練習に誘ってしまったこと、
吹きたいように吹けなくて部室に行くのを拒み
ひたすら音楽室のいつもの隅で始業前から練習しまくっていたこと…

今、演奏していて当時の残像と共に蘇ってくるから不思議です。


それだけ、たった一曲と
その時の生きている様が密接していたのだなぁと思います。

〜〜

あとは、オケで演奏することの楽しさを
改めて実感しました。

練習も勿論ですが、本番は一音ずつに
その瞬間のいのちを燃やして吹いている感があります。

おしめを洗っているとき、あるいは
こどもとゴロゴロ布団に寝転がって遊んでいるときと
優劣はつけてはいけないのだけれども!

その音を発する一瞬に懸けるエネルギーはものすごいものがあって、
イメージと一致したものが出せて且つ
それが全体と調和したときの氣持ち良さは、
命懸けで演奏している人にしか味わうことのできないものなのかなと
勝手に想っています。

演奏中の時間はとても濃く流れているように感じるのです。


数年前にヨガの概念を知って、
氣付いたら呼吸への意識をするようにしているのですが、
楽器の演奏中ほどしっかりと吐いて吸うこともないかもしれません。

演奏後は集中したことも有り疲労感こそあるものの、
よく空気が入れ替わったカラダはとても心地よく感じられます。


今、練習できる環境が殆どなくなって、
あの頃の贅沢を想います。

スタミナはすっかり落ちてしまいました。
ところが、なぜでしょう、
高い音はそれほど苦労せずに出せるようになったのです。
(どんなに力を入れても出なかったのに…あ!だからか〜)

力の抜き方を少しは覚えたと考えて良いのかなぁ…


高校生の時には経験していなかったことを
今は沢山通り抜けた自分が同じ楽譜に向き合っています。
景色、人、植物、
悔しかったこと、哀しかったこと、嬉しかったこと、しあわせだったこと、
パートナーを得たこと、おチビさんとの日々。

あの頃持っていなかった要素が(勿論失ったものもあるかも知れないけれども!)
新たに自分に加わって、それらもまた今の私の音を創ってくれているのかなとも思います。


いつかのOBオケの夜、帰るのが惜しくこの時間を終わりにしたくなくて、
酔っ払って朝までみんなでぐだぐだして散らかった私のアパートで
みんなで雑魚寝したこともあったなぁ。
世代を超えてその氣持ちと時間を共有できるのは、
それぞれの高校時代のこのオケでの濃密な時間があったからかも知れません。

とにもかくにも、今年の夏が終わりました。
またの再会を楽しみに、緩急つけながら日々を踏みしめていきたいと思います。

二年ぶりのOBオケが嬉しくて、順不同にぐじゃぐじゃ書いてしまいました。乱筆失敬!
posted by こはるん at 00:42| 北海道 ☔| Comment(0) | 想い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする